好きになったクリエータは夭逝するという話
- この世を去った、大好きなクリエーターたち
- もっと知りたかった「G.Bruno / Aqualtra」の世界
- 「G.Bruno / Aqualtra」との再会
- クリエーターがこの世を去っても、作品は生き続ける
この世を去った、大好きなクリエーターたち
いいなぁと思った作品の作者であるアーティスト、クリエータの訃報のニュースを聞く、という機会がよくある。
パッと思いつくだけでも、
・梅本竜(コンポーザー)
・モンティ オウム(RWBYの生みの親)
・近藤喜文(耳をすませば 監督)
・G.Bruno / Aqualtra(アーティスト)
・Scatman John(アーティスト)
・Saki Kaskas(コンポーザー)
などなど、挙げればいろいろ出てくる。
根拠など無く「たまたま」なのは明白だが、僕が好きになったら死ぬのか!?とさえ感じてしまうほど、そのような結末に巡り逢ってきた。いいなぁ、今何やってるんだろう、からの検索結果は結構堪えるもので、彼らの新たな「作品」をもう観れない、聴けない、と思うと虚しさを感じてしまったりする。
もっと知りたかった「G.Bruno / Aqualtra」の世界
しかし、不謹慎にも聞こえるのであえて変な意図はないと断っておくが、そのような転機を知ることで興味が増長される、ということは無くはない。
興味を持っていたアーティストに「G.Bruno」という方がいる。知る作品数は少ないが「いいなぁ」と思っていたアーティストだ。
10年くらい前だろうか、G.Brunoの「Song of Mana」のトランスアレンジを聴いた。聖剣伝説の名曲である。たぶん知人からSkypeか何かで教えてもらったものだが、どのようなめぐりあわせかは忘れた。たまたま聴いた。
その楽曲は初見時から、「とにかく丁寧な展開」に感銘を受けたのを覚えている。
・無駄のないパート 音の増減の緻密さ
・リバーブの深いピアノによる間奏がビットクラッシュしてブレイクにつなぐ情景感
・そのブレイクからのシンセのフィルターの開きすぎない開き具合の気持ちよさ
・ルート維持したまま我慢して、ようやく半音ずらしの展開で幻想感を煽るベースワーク
自称同業者だが、聴いたときは、全ての展開に意味を感じてスキがないなぁ、すごいなぁ、自分クソだな、というのが第一印象だった。
それからというもの、車の中、通勤中、プレイリストによくその「Song of Mana」は選曲され、年に1.2回くらいの頻度で聞いていたように思う。
「G.Bruno / Aqualtra」との再会
2017年の平日夜。この時も「Song of Mana」を含むフォルダの楽曲群をたまたま聴き思い出した。そういえばG.Brunoって人は今何やってるんだろう?とGoogleで検索するわけだが、下記のサイトがヒットする。
https://g-bruno.com/
サイトを開くと、出てきたのは彼を追悼するアルバムだった。21年現在も、当時から変わっていない。
僕は10秒くらいブラウザのページを上へ下へ意味もなくスクロールし、「思考が回らない」状態だった。おいおいマジか、マジカおい・・みたいな。
このアルバム欲しい。聴きたい。次にはそう思っていた。
とはいえ、すでに事が起きてから2年も経過しているのだ。これ今でも買えるんか?という不安もあった。でも、追悼への意思表示だと思って、無駄銭になっても構わない思いで、迷いなくフォームに記入して申し込んだのだった。
▲ カードボード形式のアルバム。アルバムタイトルは楽曲のタイトルになっている。
そんな不安は杞憂に終わり、関係の方からご連絡があり、難なく買えたのだった。
クリエーターがこの世を去っても、作品は生き続ける
彼の世界をあれこれ語れるほど僕は付き合いがないので、できることは彼の「表面世界」という金箔のように薄いレイヤーをすくい取るような感想しか言えない、というのは断っておく。
あかの他人である僕が、こんなことを言うのも僭越なのだが、良い人脈に恵まれているのだなと想像できる。僕が死んでもきっとこんな花道を残してくれる人はおそらくいないだろうから。(母くらいか?)
アルバムに収録されている楽曲のデータのスペクトル波形を見ると、圧縮音源特有の高域欠落があるトラックもあり、きっとこのアルバムはデータを揃えるのも難儀だったのではないか、という状況が垣間見え、誰もが望まない突然の結果だったのではないか。
楽曲ミックスや選曲ジャンルというのは、その人の性格や生い立ちが出る(と勝手に思っている)。ささくれを丁寧に摘んだような一体感は真面目さ、大人びた前衛表現による心地よさは客観視する力の高さ、トランス多めなトラックメイクは自己顕示欲の強さ。それら楽曲群を再生しながら、観音開きでデスクに置かれたカードボードのブックレットを無言で見つめつつ、アルバムからそんな想像を搔き立てた。
楽曲の丁寧さ、というのは解釈が若干変わっていたが、とにかく安定したミックス、スリムでありながら疾走する荘厳なエピックトランスは健在であり、きっと違った出会いをしていたら100%満足していた。「残念だ」という思いが存在しなければだ。
作曲者がこの世を去っても、楽曲は死ぬことはない、そういう見方をすれば救いでもある。ツィゴイネルワイゼン、第九、ノクターン、様々な楽曲は数百年経った今でも生き続けている。
あれから3年経ったが、10年後、G.Brunoの楽曲が、もっと違った聴き方で楽しめるよう期待したい。